約 246,011 件
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/132.html
書物という異界9:異界を旅した航海者の末路 ジョナサン・スウィフト 『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳,岩波文庫) 誰もが知っている『ガリヴァー旅行記』(Gulliver s Travels,1726)は,イギリス人航海者のレミュエル・ガリヴァーが小人国(リリパット国),巨人国(ブロブディンナグ国),飛行島(ラピュータ),馬の国(フウイヌム国)など,奇想天外な国々を巡るという点で,典型的な異界についての物語である。それもそのはず,作者のジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift,1667-1745)は,ヨーロッパ文学に綿々と伝わる「メニッポス的諷刺」の伝統を汲んでこの傑作を書き上げたのだが,有名なバフチーンの分析によれば,「夢や未知の国への旅」がメニッポス的諷刺と呼ばれる諸文学の主要な構成要素となっているのである。 では,そのガリヴァーにとって異界とは何だったのか,少し考えてみることにしたい。 ガリヴァーと言えば,リリパット(小人国)に流れ着いたガリバーが目を覚ますと,雁字搦めに縛られて大勢の小人に囲まれているという場面を思い出す人が多いかもしれない。しかしガリヴァーはリリパットから無事故国に帰った後も,さらに様々な国を航海し,様々な経験をする。むしろ物語の真髄は,旅を重ねるうちにガリヴァーの考えがどのように変容を遂げていくのかというところにあるのだと思う。 小人国航海の次に出た旅でガリヴァーが辿り着いた先は,巨人国だった。小人国では<巨人>として扱われ,その大きさと力の強さ故に得意になることも多かったガリヴァーだが,ここでは巨人たちに囲まれ,<小人>として自らの非力を思い知る。 …こんな風に心が動転しているさなかに,どうしたわけか私はふとあのリリパットのことを思い出していた。そうだ,私はあそこの住民たちからは,この世界では空前絶後の奇怪な巨人だと見做されていた。片手で全艦隊を引っぱることもできたし,…その他さまざまな偉業もなしとげたものであった。それが今,この巨人族の間に紛れ込んで,全くとるに足らない虫けらのように見做されるとすれば,それこそ何たる屈辱であろうか…。しかし,なおよく考えてみると,そんな屈辱など大したことではないように思われた。なぜなら,人間という奴はその図体が大きければ大きいほど野蛮で残酷だといわれているので,この途方もなく巨大な野蛮人のうちの誰かにもし捉ったら最後,そいつに一口で食われてしまうにきまっているからだ。それも要するに比較の問題にすぎない,と哲学者たちは言うが,誠に至言という他はない… 「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より ここでは,<人間>観念が相対化されている。偉大であったり,矮小であったり,「それも要するに比較の問題にすぎない」のである。 さらに追い討ちをかけるように,メニッポス的諷刺,そしてスウィフトならではの冷徹な眼差しが<巨人>に注がれる。それは人間の美醜に対する相対化の視線であり,人間の汚さを注視することである。 …私は有体に告白するが,何がぞっとするほど嫌らしいといっても,彼女[赤ん坊に授乳する巨人の乳母のこと]の巨大な乳房に匹敵するものを私は知らない。物好きな読者にその大きさ,恰好,色合いが大体どんなものであったかを伝えたいのだが,残念ながら何にたとえたらよいのか,私には未だに見当もつかないのだ。…その際,私はふとわがイギリスの女性たちの白い肌のことを考えた。つまり,彼女たちがわれわれにひどく美しく見えるのは,要するにわれわれと体の大きさが同じであるからにすぎず,拡大鏡を通してでなければ,その欠点は見られない,ということなのだ。拡大鏡を用いて実験すれば分ることだが,彼女たちのどんなにすべすべした白い肌でも実はでこぼこで粗く,不気味な色をしているのである。 「第二篇・ブロブディンナグ渡航記」より ガリヴァーは小人国と巨人国を訪れて,<人間>を相対化する視点を手に入れた。鏡の前に立っているがごとく,彼は小人と巨人のうちに自己を見出したのである。二つの異界で彼が出会ったのは,紛れもなく自分自身,<人間>であった。 旅の過程で<異界>に出会うなか,そこで問い直されるのは<自己>である。旅にはアイデンティティの動揺が伴う。 <異界>を巡る他の様々な物語と同様,『ガリヴァー旅行記』は,<自己>,あるいは<人間>そのものを巡る物語なのである。 そうした観点から言えば,その掉尾を飾る「フウイヌム航海記」が決定的な重要性を持っている。ガリヴァーが最後に訪れたフウイヌム国,そこは完璧な理性を持った馬と,人間そっくりな外見を持つ野蛮な獣ヤフーとが住む国だった。 「フウイヌム航海記」において,理性的なフウイヌムと野獣ヤフーは二つの極を構成している(この二つの極は,単なる善‐悪の対立ではなく,それぞれが両面価値性を持った相補的な二極となっているのだが,それについては後に掲げた文献を参考していただきたい)。人間ガリヴァーは,この二つの狭間,どちらともつかぬところに位置している。 しかしユートピア的なフウイヌムのあり方や忌むべきヤフーの振舞いを観察し,そしてフウイヌムの主人との会話において人間やその社会・国家の様子を報告するうちに,理性的人間としての<人間>が強く問われ(これまでまず何よりも理性を持った存在として定義されていた<人間>が,はるかに優れた理性を持つ馬の出現によって問われる),その結果人間や人間社会の堕落と病弊が明らかとなり,さらに人間とヤフーの類似を否応もなく思い知らされることになる。 そして哀れガリヴァーは,人間を相対化する視点を喪失し,フウイヌムを理想と仰ぎ,人間をヤフーと同一化して激しく嫌悪するに至る。 だが,この際有体に白状するが,人間の腐敗と余りにも違う,この優秀な「四足獣」の美徳の数々を見て,私の目は豁然として開け,理解も急に深く広くなり,そのため,人間の行動や感情を今までとは一変した角度から眺め始め,自分と同類の者たちの名誉なんか考慮する必要はない,と私は思い始めた。…この国に来てから一年もたたないうちに,私はここの住民に対する愛情と尊敬を心の底から覚えるにいたった。その結果,もう二度と人間の世界には帰るまい,そして,およそ悪というもののない…この素晴らしいフウイヌムの世界に留まり,ひたすらあらゆる美徳について思索し,かつそれを実践しつつ余生を送ろうと,固く決心するにいたった。 「第四篇・フウイヌム航海記」より フウイヌム国を追放され,いやいやながらも帰国したガリヴァーは,再会した妻の抱擁と接吻に耐えられず卒倒してしまう。帰国して五年経ってもなお人間への生理的嫌悪を消し去ることができず,二頭の馬を大事に飼って,毎日話し合うのを楽しみにしている。これが物語のエンディングである。 (作成中) ●参考文献 『ガリヴァー旅行記』の持つ作品の豊かさは,これで汲み尽くされるものではない。四方田犬彦『空想旅行の修辞学』(七月堂,1996)は,『ガリヴァー旅行記』をメニッポス的諷刺の系譜上に位置づけ,作品テクストの構造を精緻に分析している。ずいぶん前に読んだので,中身をちゃんと覚えていないが,お薦めの一冊。
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/25.html
異界学とは …構想中 異界学 基本文献 こちらを参照。
https://w.atwiki.jp/acguzenosekai/pages/50.html
先生、もっちが 封さんの言う事を聞きません! 先生、風花が、瑠奈ちゃの言う事を聞きません! うるさい、並べ!団体行動を乱すな! 封・瑠奈・封・瑠奈で交互に殴れ! すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいません キャラ名由来は 神曲奏界ポリフォニカ のコーティカルテ=アパ=ラグランジェスです。 ええ・・・「紅の殲滅姫」ですよ・・・ web恋姫では「コーティ」で活動中。 AC開始のキッカケは、ACでの知り合い 瑠奈さんの兄(仮)に誘われたからです。 「ラグ」「コーティ」「コテ」とでも呼んでくださいな この軍団、何気にPC年齢が近くて面白いっす。 自分、割とボケキャラ(ボケ過ぎてツッコミが来ない事多々) ですので、生暖かい目で見てやってください。 基本、平日夜のみ有人運転中です。 また、東北地震の災害復旧の関係で、長期ログイン出来ない場合もあります。 (その場合は連絡しますが・・・) 戻ってきました。 一応言っておきますと、 スロッタ兼 極度のラノベスキーでございます。 そして型月をこよなく愛しております。 type-moon 所持ラノベタイトル まぶらほシリーズ・神様家族・榊ガンパレ・榊ポリフォニカ・迷い猫・ケンプ・伝勇伝 ゼロの使い魔・いぬかみ・シーキューブ・あそびにいくヨ・かのこん・俺妹・とらドラ シャナ・リバーズエンド・半月・我が家のお稲荷様・終わりのクロニクル(AHEAD)・禁書目録 ドクロちゃん・ガンズハート・バトルシップガール・アリソン・リリトレ・陰まも・GOSICK・成田良悟系 etcetcetcetcetcetc 上げきれない アイヴィは差し替えてません ラグ装備 未来型物理36等+1 銀鎧の戦闘靴+10(紫闇宝石カスタム) 聖者の剣+10 日輪+10(悪魔の羽風味) 蒼牙の腕当て+1 聖騎+9(チャイナ風味) 黒真珠指輪 加速時計×3 戦術箱(狂闘×3) 覚醒9 プルフ装備 未来型魔法32等 マキシフリート 空色の藤靴+10 青緑の魔手+10 悪魔の羽 蒼穹和装 魔人の指輪 魔獣の指輪 加速時計 クロム 黄金装備箱(霊能×6) 覚醒9 ペット装備 未来型物理20等 黄金の槍 朝の風の戦闘靴 猛撃の鞍 闇月の手袋 聖騎 黄金の獣龍首飾り 狂闘 黒真珠の指輪 他のNPC トウリンLv45 覚醒9 アイヴィLv52 覚醒9 今後の予定 やることが一杯 1、プルフのレベル上げ 2、主のレベルUP 3、セベルのステ矯正 4、主の装備充実 5、NPCの装備充実 下手なんで期間限定up 2 47頃には削除予定 見たことある人いるかも・・・w とある人が自作としてうpしてたので( ゚д゚ ) 削除済 コメント欄 装備羨ましいです・・・分けてください!!!(ぇ -- もっちー (2011-07-21 19 50 10) 何このブルジョア・・・のろわれてしまえー -- 風花 (2011-07-22 22 42 53) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/24.html
書物という異界2:とある異界の百科事典 クラフト・エヴィング商會 『すぐそこの遠い場所』(ちくま文庫) 「とある世界についての百科事典」という体をなした小説と言えば,ベオグラード出身の文学者・作家であるミロラド・パヴィチの『ハザール事典』[男性版/女性版](東京創元社)が有名だが,それについてはまたの機会に譲るとして,ここでは日本の作者による,ささやかな事典小説を一つ。作者(ら)はブックデザインにも定評があり(先ごろ創刊された「ちくまプリマー新書」の装丁も手がけている),視覚的にも楽しい一冊である。 読者が手にするのは,『アゾット事典』。それは子どもの頃に祖父から話を聞きながらも読むことの叶わなかった事典である。しかし祖父の亡き後,作者は祖父の書棚の最上段から探し出してきたのであった。 それは「アゾット」(AZOTH)という名の「世界」についての事典である。事典はまず「AZOTHという名前について」から始まり,「アゾットの「21のエリア」について」,「世界の回転について」,「アゾットの言語について」と続く。さらに進むと読者の耳慣れない項目が現れる。「忘却事象閲覧塔」,「雨師」,「残像保管庫/残響音保管庫」,「哲学サーカス団」などなど。登場する物事はどれも,これまで出会ったことのない新奇なものであるが,妙に懐かしい心地を呼び起こすものばかりだ。なぜだろうか。思うにそれは,そうした物事のすべてが「この世のものでありながらこの世のものでない」,あるいは「異世界のものでありながら異世界のものでない」ものだからなのではないだろうか。まさにアゾットとは,タイトルの示す如く「すぐそこの遠い場所」なのだ。 ここで特別に,お気に入りの一項を丸ごと御紹介しよう。 ●夕方にだけ走る小さな列車 エリア7「パープル・エッジ」は,実に広大なエリアである。というより,ここでは何もかもが長く引き伸ばされているかのように見える。 この現象を象徴するものとして,このエリアの夕方の「長さ」がある。このエリアで流れる時間のほとんどが「ひき伸ばされた夕方」のように感じられるのだ。 夕方の始まる,とろんとした眠たさに始まり,夜がおりてくる一瞬手前の最後の青い光芒まで。夕方特有の数時間が,ここではほぼ一日を費やし,蜜が充たされるようにゆっくりと過ぎてゆく。 この時間の中では誰もが輪郭を失い,人のみならず,語られる言葉すらぼんやりとして,すべてが長く影をひいている。 このエリアでは,このようにいつでも10月であるような時間たちのことを,いつからか「彼は誰の刻」と呼びならわしてきた。 実際ここではそんな夕方的憂愁の力に丸めこまれ,誰ひとりとして「彼方の人物」の正体を見極められない。その「彼は誰か?」といぶかる時間さえ,どこまでも長く影をひいている。 このエリアには「夕方にだけ走る小さな列車」(正式名称はダンテズ・イヴニング・レイルロード)の停車場があり,ここはすべての列車の発着駅でもあるため,駅舎は列車の小さな車体に反し,とてつもなく大きい。プラットホームは両端が確認できぬほどで,どこまでも永遠に続いている。そこへ,わずか2両編成の小さな車両が到着するのだから,いったい,この滑走路のように長いホームのどこで列車を待てばよいのか,途方に暮れること必至である。 「そんなこと駅長に訊けばよい」 と思うかもしれないが,ここは「彼」がどこにいるか確認できないことで有名な場所なのである。駅長とてすぐに見つけられるものではない。駅長を見つけられるくらいなら,列車の方がよっぽど見つけやすい。 それだけではない。 この列車は「夕方にのみ走る列車」なのである。したがって,乗車するためには,一日中夕方であるようなとりとめのない時空の中から「本物の夕方」を的確に感じとらなければならない。それゆえ「夕方音痴」の乗車希望者は,どこまでも乗り遅れることになる。 だが,そうあわてることもないのだ。 ここには夜は来ないし,もちろん朝だって来ない。 ここでは,ただひたすらの夕方が永遠に繰り返されているだけだ。 永遠の夕方の中で,永遠に乗り遅れるがよろしい。 それは,ほとんど天国に来てしまったかのような,心地よくも憂鬱な開放感である。 「夕方」と「永遠」と言えば,ボルヘスの哲学的エッセイ「永遠の歴史」(『永遠の歴史』,ちくま学芸文庫)に,この上もなく美しい箇所があったではないかと思い出し,久しぶりに書棚から取り出しその本を開いてみた。しかしボルヘスの「永遠」は,「静穏な月夜」であったことが判明した。人の記憶など頼りにならないものだ。 『アゾット事典』の編者は冒頭でこう述べている。「世界はどこまでも混沌とし,そして,本当に大切なことは次から次へと忘れ去られているように思えてならない。にもかかわらず,私たちはよほど重大な謎でも生じない限り,「はてな?」と首をかしげることもなく日々をやりすごしている。しかしそもそも私たちは,この世界をどれほど理解しているというのだろう?」。さらに言うには,「私は物忘れのひどい「記憶係」であり,「そもそもこれって,どうしてなんだっけ?」とつぶやき続ける事典編集者である。それでも,なんとか「忘却の谷」の崖っぷちまで,そろりそろりと出かけてゆき,ひっそりとつかみ取ってきたものだけを,そのまま編集したのが,この「事典らしきもの」だ」。 我々は「物忘れのひどい動物」である。果たしてそのことは不幸なことなのか幸福なことなのか。たとえば本を読んでもすぐに内容を忘れてしまう。しかしそのお蔭かどうか,その同じ本を読み返そうと思い立ち,また新たな発見が生まれることになる。書物は出会いを与える。それは新しい出会いでもあり,同時に懐かしい旧友との再会でもあるのだ。 書物を読むことは逆説的にも,ぽっかりと開いた「忘却の谷」の存在を指し示す。しかしその「忘却の谷」こそ,「すぐそこにある遠い場所」であり,それがまさに異界なのかもしれない(menocchio)
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/52.html
書物という異界4:世界の切り取り方,さまざま 川内倫子『Cui Cui』(フォイル),『花子』(リトル・モア) 『childlens』(リトル・モア) 【留保つきエッセイ】 僕は写真を撮るのも,写真に写るのも苦手な方だ。写真について考えたこともこれまで殆どなかった。それゆえ写真論を講じたり,写真を批評したりする資格など全くないのだが,それでも今回は,気まぐれに買った写真集をいくつか取り上げてみたい。写真については,色々考えてからまた稿を改めて書くとして,今日のところは勉強不足をお許しいただきたい。 川内倫子は,『うたたね』と『花火』で第27回木村伊兵衛写真賞,この『花子』で2002年度写真協会賞新人賞を受賞した新進気鋭の写真家。『花子』は,京都に住む今村花子とその家族の変わらぬ日々を追ったドキュメンタリー映画『花子』から生まれた写真集で,『Cui Cui』は1992年から2005年までの13年間,彼女自身の家族の風景を撮影したものである。他方の『childlens』は,2歳から6歳までの子どもたち75人がカメラマンとなって撮影した写真を集めた奇抜な作品。タイトルには,もちろん「チルドレン」と「レンズ」がかけてある。 川内と子どもたち,専門家や玄人に言わせれば,それはもちろん全く異なる写真であろうが,そういったことは門外漢の僕にはよく分からない。しかしこの相異なった写真が,素人の僕には似た感覚を呼び起こした。それは何なのだろうか。どの写真も珍しいものとか,雄大な自然風景とかが写っているわけではない。写っているのは,どれも取るに足りぬもの,日常の風景などばかりだ。それなのに,一枚一枚の写真が,かくも清新な印象を受けるのは何故なのだろう。 その理由を自分でうまく説明するのは難しいが,思うに写真は何重もの意味で他なるものであるから,ということが考えられる。 第一に,写真に収められているものは,おしなべて過去に属するものであるということ。それは誰かの生の証であり,我々が我々自身の前/後に連綿とつづく長久な歴史(過去は我々の前にあるのか,後ろにあるのか,これ自体非常に重要な問題である)に触れたときに感じる畏敬の念にも似たような感興を引き起こす。西瓜の皮と種の写真,それは紛れもなく,かつて誰かが西瓜を食べたという証なのだ。足元が絶えず忘却の淵へと崩れ去っていく我々の生にあって,それはある場合には一つの生きる縁(よすが)・避難所になったり,ある場合には忘れてはならないものに対する倫理的義務が彫り込まれた刺青のようにもなる。 第二に,撮影者にとって被写体は他なるものであるということ。当たり前のことだが,基本的には撮影者が同時に被写体にもなることはできない。写真を撮るということは,世界を切り取るということで,そのとき写真家は世界に対峙せざるをえない。「主体‐客体」の「見る‐見られる」,というこの問題は,哲学的に言っても大きな論争を呼んできたもので,私には論ずることも容易ではないが,そうした問題群が写真のなかには先鋭化したかたちで表れているのではないかということだけ,ここでは示唆しておこう。たとえば,『Cui Cui』のなかには,祖父が生き,床に臥し,命が召される,その始終が収められている。そこでは写真家の眼差しは,心の揺れを持つ一方で,仮借ない厳しさをも持っているように思える。写真を撮るには,対象との距離を保たねばならない。何人かで遊びに行って記念写真を撮ろうとしても,誰か一人がシャッターを押さなくてはいけない。「すいませーん,写真撮ってもらってもいいですか?」と言っても同じこと。写真には他者の目を必要とする。何かを犠牲にしなければ,何かを残すことはできない。証を残す時点で,既にその証は真正ではないのかもしれない(証言の困難さ,それはアウシュヴィッツを生き残った者たちに重たい影を落とした)。 そして第三に,これが最も端的であるが,写真を撮る眼差しと,写真を見る私の眼差しは異なるということ。それを最もはっきりと認識させてくれるのが『childrens』だ。例えば3歳のみわちゃんが見ているものと,僕の見ているものがたとえ同じであっても,その「見え」は異なっているということ。このことは,ライプニッツの有名な比喩を想起させる。 「同じ都市でも,異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え,眺望としては幾倍にもされたようになるが,それと同じように,単純実体が無限に多くあるので,その数だけの異なった宇宙が存在することになる,ただしそれらは,それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまの眺望に他ならない」(『モナドロジー』) 同一の世界の異なる切り取り方,もしかしたら異界とはこういうものなのかもしれない。写真もライプニッツも知らないので,ものすごく的外れなことを言っているのかもしれないけれど。 下らなさと無知はご容赦いただいて,みなさまいろいろお考えをお聞かせください。
https://w.atwiki.jp/00891/pages/26.html
生まれてくるペット NO. ペット名 NO.1 雲の切れ端 NO.2 貧乏巫女 NO.3 幸せのにんじん NO.4 宝塔 NO.5 雑魚妖精 NO.6 毛玉 NO.7 魔理沙の箒 NO.8 半霊 NO.9 怨霊 NO.10 楼観剣 NO.11 蛇の髪飾り NO.12 蛙の髪飾り NO.13 レミリャドール NO.14 お賽銭 NO.15 お賽銭箱 NO.16 コトリ NO.17 パチュリードール NO.18 サリエルドール NO.19 フランドール NO.20 マイドール NO.21 スワコドール NO.22 ユウカドール NO.23 トラマルドール NO.24 ユカリドール NO.25 萃香の角 NO.26 天狗のメモ帳 NO.27 第3の眼 NO.28 モーグ NO.29 アキンド NO.30 ワイルド NO.31 ポッポ NO.32 カンセル NO.33 バッカス NO.34 デューク NO.35 ハーピー NO.36 シノビー NO.37 ペテン NO.38 ダウンジングロッド NO.39 アルテミス NO.40 ソルジャー NO.41 スパルタ NO.42 クロノス NO.43 プチキング NO.44 リッチー NO.45 禁書 NO.46 プチナイト NO.47 スコーピオン NO.48 アテナ NO.49 チビファイター NO.50 ホワイトドラゴン NO.51 ブラックドラゴン NO.52 シールドナイト NO.53 マジックドラゴン NO.54 ミストドラゴン NO.55 シーフナイト NO.56 キングドラゴン NO.57 ヴィーナス NO.58 キング NO.59 デュラハン NO.60 モミジドール NO.61 サクヤドール NO.62 リリードール NO.63 神の風 NO.64 レイムドール NO.65 天界の桃 NO.66 罪袋 NO.67 ナズーリンドール NO.68 神のご加護 NO.69 メシア NO.70 シグマ NO.71 厄い雛人形 NO.72 ウェポンLv1 NO.73 ウェポンLv2 NO.74 ウェポンLv3 NO.75 ウェポンLv4 NO.76 信仰心 NO.77 神秘の卵 NO.78 朱鷺子の本 NO.79 八目鰻 NO.80 パチェの魔道書 NO.81 イグローク NO.82 アッラー NO.83 リリス NO.84 サニー NO.85 アレクサンダー NO.86 ウィスプ NO.87 パンプキン NO.88 ラフレシア NO.89 ドリアード NO.90 ファラ NO.91 イフリート NO.92 サラマンダー NO.93 ゴーレム NO.94 タイタン NO.95 ノーム NO.96 ライチョウ NO.97 ラムウ NO.98 ライジン NO.99 スノウ NO.100 シヴァ NO.101 ウンディーネ NO.102 エアリアル NO.103 シルフィード NO.104 ジン NO.105 コアクマ NO.106 ヘル NO.107 シェイド NO.108 ウサコ NO.109 バニー NO.110 ルナ NO.111 ウィッチ NO.112 カーバンクル NO.113 フェアリー NO.114 フェニックス NO.115 バットン NO.116 ヴァンパイア NO.117 サキュバス NO.118 スライムナイト NO.119 オメガ NO.120 マジックスカル NO.121 ポイズンゾンビ NO.122 ウィザード NO.123 オーディン NO.124 デス NO.125 サトリドール NO.126 スリープシープ NO.127 オリン NO.128 妖怪の素(青) NO.129 妖怪の素(白) NO.130 妖怪の素(赤) NO.131 ウロボロス NO.132 ヒジリドール NO.133 フィーバー NO.134 蓬莱の薬 NO.135 粒弾 NO.136 制御棒 NO.137 ペスト NO.138 博麗大結界 NO.139 ミミちゃん NO.140 ユユコドール NO.141 マモン NO.142 アスモデウス NO.143 奇跡の棒 NO.144 イタズラ NO.145 ユカリン NO.146 コウメイ NO.147 トロイ NO.148 ダウンヒル NO.149 テイ NO.150 ミシャグジサマ NO.151 ミラクルフルーツ NO.152 ロスタイム NO.153 ラストエイジス
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/101.html
書物という異界(番外) 菊池直恵 『鉄子の旅』(小学館) 鉄道好きの人から「こんどのダイヤ改正で寝台特急が4本もなくなっちゃうんですよ!!!」という話を聞いて,ふと前々から気になっていたこのマンガを買って読んでみた。 男の子は小さいころ自動車か電車かどちらかが好きだと言われるけれど,僕は電車が好きだった。今でも割合好きな方かもしれない。 しかしこの本の主役となるのは,並の鉄道好きではない。この本に出てくるのは,「一般の人よりも,かなり,相当,どっぷり深い愛情を持って鉄道に関わる」人たちであり,≪テツ(鉄)≫と呼ばれる。「鉄道にキョーミのない女性マンガ家が,究極の鉄道好き(テツ)に日本全国連れ回される」,その珍道中を描いたのがこのマンガである。 旅の案内人はライターの横見浩彦という方で,日本全国の駅9843駅すべてに下車したツワモノである。この横見氏が毎回,鉄道の旅を企画するのだが,その旅の異常さに素人は絶句する。たとえばローカル線の全駅を下車する旅では,一駅一駅降りて次の電車を待っていたら,本数が少ないために,時間が膨大にかかってしまう。それ故,そのタイムロスをなくすために3駅進んで今度は1駅戻るなど上下線をうまく組み合わせて全駅を効率よく回る計画をたてる。なんでそこまでして全駅下りなあかんの,と思うけど,その計画どおりに回れた時の達成感がたまらないらしい…。 「大都市近郊区間内のみをご利用になる場合の特例」(JRの関東近郊区間内であれば,実際の経路に関わらず最も安くなる経路の運賃で乗車できるという特例)を利用して,関東1都6県を130円で大回りするという旅もあった。駅を一回も下りないで一日中電車に乗っているだけ。絶句…。 でもよくよく読んでいくと,なんだか見たことのある場面に遭遇する。鈍行で鹿児島に行ったり,大垣夜行に乗って和歌山に行ったり,鶴見線にただ乗ってみたり…。 快速荒尾行きってこの前乗ったなあ,「九州の電車ってなんかおしゃれ」って感想までいっしょだし…。御坊で紀州鉄道の車両にわざわざ行って写真とってたし…。朝は6時出発だとか,隣の駅まで歩いてみようだとか,知らず知らずのうちに異界会って≪テツ≫の旅だったのか…。 たしかに我々なぞは未だ≪テツ≫の足元にも及ばないのだろうが,何か同じような臭いを嗅ぎ取って,読んでいる間ニヤニヤ笑いが止まらなかった。 我が道を究めることの面白みが伝わってくるマンガ。 menocchioの部屋に戻る
https://w.atwiki.jp/gensouroku/pages/80.html
効果 レベルアップ時統率+1 部隊変更(飛龍部隊)の際の生贄 生まれる卵 ハテナエッグ ドリームエッグ ドラゴンエッグ キングエッグ
https://w.atwiki.jp/ikaikai/pages/46.html
書物という異界3:狂っているのはどちらか しりあがり寿 『“徘徊老人”ドン・キホーテ』(朝日新聞社) (暫定稿) 周知のとおり2005年は節目の年で,終戦60周年,阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件から10年の年,そして「一石仙人」のところで述べたように世界物理年…などと様々な記念の年とされているが,もう一つ,セルバンテス『ドン・キホーテ』(前篇)の刊行から400年にあたる年でもある。 近代文学の曙にあって燦然と輝くこのセルバンテスの作品は,その内容の豊穣さのために様々な解釈に晒されてきたが,私はここでそれに立ち入ることはしない(できない…)。目下この大著を楽しんでいる最中である。 代わりにと言ってはなんだが,ここでは(またしても)しりあがりの漫画を取り上げたいと思う。舞台は現代社会。主人公は折り紙の兜をかぶった徘徊老人(ちなみにサンチョは介護士)。弱いものイジメや不正を許さぬ彼は,姿を消した妻を捜しながら,臆することなくヤンキーや世の堕落に立ち向かっていく。 しりあがりはドン・キホーテの舞台を現代へと移し変えることに見事に成功しているように思われる。馴れ合いと惰性を激しく批判し,現代に生きる人間の心の病理へと切り込むメスの鋭さは,読む者をドキッとさせるほどである(たとえば第五話「環状線」を見よ)。 社会の病理は全てドン・キホーテの眼を通して描き出されるわけだが,このとき読者は狂者という鏡を前にしてパラドクスの迷宮に入り込み,ドン・キホーテと我々,狂っているのは一体どちらなのか分からなくなってしまう(第六話・第七話)。正常/異常という規範が崩壊する。 しかし狂者を通して社会の病理を暴くというその手法は,恐らくはエラスムス『痴愚神礼賛』へと遡ることのできるもので,オリジナルの『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスもまたエラスムス主義者であった。しりあがりのドン・キホーテが,このルネサンス文学の豊かな伝統を現代に蘇らせたと言ったら言い過ぎであろうか。 ところがルネサンス期における諷刺の陽気さは,ここでは大きく失われている。エラスムスは愚者による愚者の「礼賛」(encomium)という巧妙な戯れの形式を採用したが,ここでは代わりに狂気は全てを喰らい尽くす津波となり,カタストロフのオブセッションが作品の基底を成しているように見える。しかしクライマックスにおいて我らがドン・キホーテが神と交わす対話は,矜持に満ちて崇高さすら感じさせ,妻を助けようとするその姿は,生きづらくなったこの世においても今なお,愛の可能性を追うことができた(それが実は逆説的で,もはや取り戻すことのできないなものであり,それ故に夢と狂気のなかでしか追えなかったというにせよ)ということを示しているのではなかろうか? 人間の歩みの背後にうず高く積まれた廃墟の山。歴史がカタストロフの連続であるとしても,「わたし」はその中で生きねばならない。その時どのように生きるべきなのか。「なんかいいようにしてください」,答えを安易な仕方で他者に求めてはならないだろう。 この本は,すべてのドン・キホーテたちに捧げられている(menocchio)
https://w.atwiki.jp/00891/pages/24.html
生まれてくるペット No. ペット名 NO.28 モーグ NO.29 アキンド NO.30 ワイルド NO.31 ポッポ NO.32 カンセル NO.33 バッカス NO.34 デューク NO.35 ハーピー NO.36 シノビー NO.37 ペテン NO.38 ダウンジングロッド NO.39 アルテミス NO.40 ソルジャー NO.41 スパルタ NO.42 クロノス NO.43 プチキング NO.44 リッチー NO.45 禁書 NO.46 プチナイト NO.47 スコーピオン NO.48 アテナ NO.49 チビファイター NO.50 ホワイトドラゴン NO.51 ブラックドラゴン NO.52 シールドナイト NO.53 マジックドラゴン NO.54 ミストドラゴン NO.55 シーフナイト NO.56 キングドラゴン NO.57 ヴィーナス NO.58 キング NO.59 デュラハン NO.72 ウェポンLv1 NO.73 ウェポンLv2 NO.74 ウェポンLv3 NO.75 ウェポンLv4 NO.111 ウィッチ NO.112 カーバンクル NO.113 フェアリー NO.114 フェニックス NO.115 バットン NO.116 ヴァンパイア NO.117 サキュバス NO.118 スライムナイト NO.119 オメガ NO.120 マジックスカル NO.121 ポイズンゾンビ NO.122 ウィザード NO.123 オーディン NO.124 デス NO.126 スリープシープ NO.146 コウメイ NO.147 トロイ NO.148 ダウンヒル NO.149 テイ